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龍泉寺の歴史

二本松最古刹。本山御直末

 1000余年前、同寺葺修の際に、その屋根裏から一枚の棟蓋が発見された。(二本松寺院物語)

 その後、『永松山略記』によると1320年(元応2年)恵燈律師が行基作の聖観音を得て開山、当初は真言律宗で白光山瑞祥寺という名の密教寺院であったと伝えられています。当寺は元々浮内(現塩沢)にあり、一世行者の庵室にになっており、1319年(元応元年)に恵燈律師が京より岩手県・奥の正法寺に向かう途中、一夜その庵室を仮宿とし、観音様の霊感に打たれ、その有難い因縁に感泣し、庵室を改築移送して白光山瑞祥寺を建立致しました。しかし、廃寺同然になってしまい、後に加賀金剛寺の祖超禅師の高弟にあたる直心全忠禅師によって再興され、以来曹洞宗に改宗されたといわれております。

 

 1460年(寛正元年)当時の二本松城主畠山政泰公(二本松政国公)が直心全忠大和尚を招き、初代・高国、二代・国氏の菩提を弔うため開山したとされています。畠山家は歴代、龍泉寺を祈願寺として崇敬し、1492年(明応元年)4代満泰公は長男満盛の霊を祀り、法名を「龍泉寺殿」と称し、龍泉寺に於いて参禅修養は勿論、殊にその教えを学び、さらには一朝有事の際の兵站基地の役目をなしたといわれています。

 

 その後、1637年(寛永14年)12月6日に加藤民部少輔明利が塔頭達山和尚に成田村25石を寺領として頂き、同20年藩主として入部した丹羽光重公にも引き続き同様に保証を頂きました。尚、光重公逝去の際には入棺の法要の導師を当時住職であった恕天和尚が勤めたとされております。

 

 大本山總持寺御直末として、以前は末寺22ヶ寺を擁しました。

現在は2世德翁常泉大和尚が開山した本宮の石雲寺。

 

3世兼到淳覚大和尚が開山した市内にある正法寺。

 

4世利宵嚴益大和尚が開山した大玉の玉泉寺、下川崎の高国寺、市内亀谷の光現寺、郡山市中田町の蓮蔵寺。

 

6世実山存貞大和尚が開山した郡山市大槻の長泉寺。

 

7世明室紋達大和尚が開山した市内若宮の少林寺。

 

9世住國達山大和尚が開山した岩根の龍傳寺、青田の大泉寺、郡山市湖南の洞泉寺、石川町の来福寺。

 

これに郡山市中田の瑞雲寺を合わせて13ヶ寺の末寺が現存すると言われております。

 

 龍泉寺40世大信喚随大和尚は21歳にして中野山大正寺の住職になります。それから鹿島の宝林寺、本吉郡の宝鏡寺の住職になり、明治40年再び中野山大正寺に再住し、大正寺の復興に努めました。

 中野山大正寺の中興開山になるも、法縁によって1912年(大正元年)に永松山龍泉寺第40世の法燈を継ぎ、堂宇を修め山内に植林して百年の計を為し、県内初めての聾唖学校を設立するなど、昭和六年10月6日に58歳で示寂するまで檀信徒家門繁栄、寺門興隆に多大なる尽力を注がれました。

 2014年現在、ホームページを作成している虎月良典の曾祖父にあたるのが大信喚随大和尚であり、祖父にあたる龍泉寺41世呑空喚三大和尚も幼少期を中野山大正寺で過ごすなど、法縁において大変大切な繋がりである事は間違いありません。

 

 

  

歴代殿様

   祈願寺

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